武蔵村山市ぶらりガイド
武蔵村山の魅力をより多くの方々に知っていただくため、「武蔵村山市ぶらりガイド」を発行しました!
史跡、特産品、地域ブランド、イベント・おまつり、観光スポット、ドローン撮影、魅力マイスターなど武蔵村山の魅力がたくさんつまった内容となっております。
「武蔵村山市ぶらりガイド」と本ホームページを合わせて活用すれば、さらに武蔵村山のことが分かります。
空から見よう!!~鳥になってむさむら~
ドローンを使って武蔵村山市を撮影しました。上空から覗いてみてください。
【撮影場所】
・野山北公園
・総合運動公園運動場
・プリンスの丘公園
マイスターのおススメ ~五感を研ぎ澄まして~
武蔵村山の技をもつ匠や伝承する力(自然・伝統文化・グルメ等)を保有している4人の魅力マイスターに武蔵村山の魅力を伝えていただきます。
(1)廃線マニアが集うトンネル
こんにちは。私は軽便鉄道語り部の石川伊三郎です。
東京都内の市で唯一駅がない武蔵村山市ですが、かつては狭山丘陵内に村山貯水池(多摩湖)・山口貯水池(狭山湖)を建設するための鉄道(羽村・山口線)が通っていたんですよ。
なぜ、狭山丘陵内に人口の湖がつくられたと思いますか?
それは、人口増加に伴う水不足を解消するために狭山丘陵の地形を活かし、貯水池を建設したんです。
この湖を満たす水は多摩川で、羽村の堰(せき)から狭山丘陵の多摩湖までを地中に水路を通し水を引き込んでいるのです。
その多摩湖(村山貯水池)にむけて水路を作る際に、敷設されたのが軽便の起源なのです。
昭和に入り、さらなる水道水のニーズに対応するため狭山湖(山口貯水池)が起工しました。
軽便鉄道は、狭山湖の建設材料の砂利を運ぶために再度活用され、この際にトンネル群が完成し、狭山湖の堤防まで延伸しました。これが総延長約13キロメートルにわたる幻の軽便鉄道「羽村・山口線」です。
(2)化石発見!狭山丘陵は海と川だった
こんにちは。私は、「むさしの化石塾」代表の福嶋徹です。
みなさんは、ご存知でしょうか。
約20万年前、なんと多摩川は狭山丘陵の中や埼玉を流れていたことがあったのです。
太古の多摩川(古多摩川)は暴れ川で、南は現在の多摩川の位置でしたが、北は入間、所沢、川越あたりまで北上していました。西側にそびえる山からの土砂を堆積させては、流れを変えることを繰り返して扇状地をつくり、それが東京の大部分が含まれる武蔵野台地となりました。しかしながら、地殻変動により古多摩川は青梅から北東への流路をたたれ、現在の多摩川の位置に収束しました。
1万年前に至るころには、今の関東平野の原型が完成します。
原人が活躍していく時代、やがて豊かな縄文時代という人類史が関わっていく時代にかわっていきます。野山北公園内の遺跡広場では縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が確認されています。
(3)江戸時代の姿が残る秘境
こんにちは。狭山丘陵さんぽフォトグラファーの坂下智浩です。
大将山の階段を登り狭山丘陵に入ると、ここは本当に東京か?!と思うほど景色が一変します。
国道16号より内側の東京で、江戸時代から変わらぬ姿の山が残っております。なぜ、このような秘境が残されたのでしょうか?4つの理由があります。
<理由1>
狭山丘陵の西側(武蔵村山市)は東側と比べてヤマ(丘陵)が深く、人が住むよりヤマとしての地であった。
<理由2>
大正時代に、東京の水がめとして、村山貯水池、山口貯水池が造られたことで、山林が保全された。
<理由3>
村山貯水池、山口貯水池がリゾート化され鉄道開発が進んだことにより、沿線となった東村山市、東大和市は湖ぎりぎりまで宅地開発がされたが、唯一東京都で鉄道がない市である武蔵村山の狭山丘陵は宅地化の波に飲み込まれなかった。
<理由4>
昭和63年に、東京都最大の都立公園として野山北・六道山公園が開園したことで狭山丘陵の里山の復興と維持がされるようになった。
これらが重なることで、宅地から一歩山に入ると、江戸時代と変わらぬ姿の秘境が残っているのです。
みなさんも狭山丘陵に足を運び、あなただけの”ムサブラ”写真を撮ってみてください。
(4)目もくらむ技術の結晶
こんにちは。村山織物協同組合理事長の髙山金之助です。
大島紬というとみなさんは奄美の大島紬を想像する方が多いと思います。
なぜ、村山で大島紬と名乗るようになったのでしょうか。
村山大島紬は、江戸時代中期に創り出されたと言われています。綿織物と絹織物が合流し、後に群馬県伊勢崎より絣板(カスリイタ)を使った染めの技法を取り入れ、緻密な柄が作成可能になりました。大正時代中期に奄美の大島紬が流行しており、同等の生地と柄を造れることから村山大島紬と名乗るようになりました。
村山大島紬の生地はシルク100%です。なんと、柄は後からプリントしたり、染めるのではありません。経糸、緯糸をデザインに合わせてあらかじめ染めて、それを織って柄を作り出します。まずドットで描かれたデザインを作成します。方眼紙に図案を写し、1行ごとにドットを凸凹で掘り込み、柄の行数分の板を作ります。この板で糸を10tの力で挟み込み染めあげていきます。凸で挟んだところは色が染まりません。この作業を経糸、緯糸の両方に施し、手織りでデザインに合うように正確に織りあげていきます。この板を絣板と呼び、ひとつの柄に150枚程度が必要です。この絣板を使った染めの技法により緻密で安定した品質の生地を供給できたのです。
村山大島紬は、精緻なデザイン、奥ゆかしい民芸の風合い表裏がないという特徴を持つようになり、昭和50年に通商産業大臣指定伝統的工芸品として指定されるにいたりました。
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